ふじい のうそう

藤井 能三

伏木の近代化に生涯を捧げた

弘化3年(1846)-大正2年(1913)

功績

能三は、船問屋の筆頭格「能登屋」の長男として生まれ、18歳で家督をつぎました。 23歳の時に、加賀藩から神戸に出張を命じられ、神戸港が汽船でにぎわう様子を目の当たりにします。この頃から、能三は伏木の近代化を進めるという構想を思い描きます。そのためには、新しい知識を学んでもらう必要があると考え、明治6年(1873年)、富山県初の小学校「伏木小学校」を創設しました。さらに、女子教育のために「藤井女児学校」も開校します。
海運を拡張するために、三菱の岩崎弥太郎と交渉し、条件として提示された日本海側初の西洋式灯台を建設。洋式汽船で伏木港と東京、大阪、北海道などを結ぶことに成功しました。
さらに、シベリア鉄道の使用を視野に入れ、伏木港を近代港湾に発展させることを提案。「伏木築港論」を発行し、その後、庄川改修工事が始まりましたが、伏木の発展を夢に見続けた能三は、完成を見ることなく66歳で亡くなりました。

高岡市立伏木小学校 XF10 (CC BY-SA 4.0) 出典: Wikipedia
高岡市伏木気象資料館
関連サイト 「ふるさととやまの人物ものがたり」(富山県教育委員会発行) P30
ゆかりの地 高岡市伏木気象資料館、伏木港、岩崎ノ鼻灯台
参考文献 ほくりく20世紀列伝 上巻 (2007年、時鐘舎新書)
高岡を愛した先人たち(2009年、高岡商工会議所)
その他特記事項 高岡市伏木気象資料館内に「藤井能三 顕彰コーナー」
高岡市立伏木小学校校庭に「藤井能三銅像(大正11年建設)」